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居酒屋 水の中

とてつもなく頭が芯から痛かった。
鼻の奥も痛む。
うーん、うーん・・・周りの景色はやけに揺らめいている。

いささか飲みすぎたようだ。いや、とんでもない!一滴だって飲んでいるもんか!
私はこのところ残業続きで長い事、酒にお目に掛かっていない事を思い出した。
溜息を付きながらふっ~と顔を上げると、そこに、ちょうど御あつらえ向きの店があった。

店の名は「居酒屋 水の中」

風変わりな名前の店じゃないか。それにしても何かひっかかる名前だがどうも思い出せない。
どうやら相当に疲れているようだ。

私は店の紺色ののれんを潜りガラス戸越しに煌々と灯りが見えるその引き戸を開けた。

「いらっしゃいませ」カウンターの中から和服姿の美女が微笑んだ。
何処かで見たような顔だ・・・そうだ幼馴染で初恋の可奈子に何処となく似ている。

さほど広くない店内は満席だった。
テーブル席が4席と後は8人掛けのカウンター。
どの客も皆、静かにグラスを傾けている。
テーブル席には家族連れの姿も見えたが、やはり静かに黙々と何か食べている。

「お一人様ですか?では、どうぞ、こちらのお席へ」可奈子に似た女将に促されて、私はカウンターの一番奥の席に付いた。
ふっと気が付くと店内には何台ものテレビがある。そのすべてがオンエアーになっていて、同じような光景が写されていた。
喪服姿の人々が泣いている。
棺の前で焼香をする人。
厳かなお経の声・・・おいおい、全部、葬式の中継じゃないか。
誰か大物の芸能人でも亡くなったようだな。

このところ忙しくてロクにテレビも見ていなかったので、私はすっかり世の中の動きに疎くなっていた。
それにしても何故この店はこんなに何台ものテレビを置いているのだろう?
しかも全部同じチャンネルで・・・あ、いや、違う!同じチャンネルではない。それぞれに違う葬儀場を映し出している。
どういう事だ?テロか飛行機事故で大勢の人でも亡くなったというのか?
訝しく思いながらも席に付く。女将が熱いおしぼりを渡してくれた。
『ああっ!・・・なんて温かいんだ!!』何故か私は、おしぼりの温かさにさえ、えらく感動してしまった。
「何をお出ししましょう?」にっこりと微笑みを湛えて目の前に立つ女の顔を改めて見る。

やはり可奈子だ!可奈子に違いない!右の頬の真ん中にある小さなホクロ・・・それが何より可奈子である証拠に思えて、私は注文をする前に聞いていた。
「もしかしたら可奈ちゃんじゃないかい?」 

「えっ…?」可奈子と思われる女は一瞬、動きを止めて「いえ、私の名なら、杏仁信女と申します。」と、弱々しい微笑みを浮かべて言った。
しかし…その後で彼女は「可奈子は、私の生前の名前ですが…もう、随分と時が経ってしまって、その名で呼ばれていた事も、すぐには思い出せなかったわ。」と言った。
確かに、もし可奈子だとすれば、彼女は若すぎた。

私はその時、一気にすべてを思い出した。
可奈子は、高校を卒業する直前に、殺害されて、遺体が、その後、近くの船着き場から見つかったのだった。
そして私は…そうだ。出張で遠方へ向かう飛行機が墜落して、真っ逆様に機体ごと真下の大海原に落ちた。

そうか、私は死んだのか。
この居酒屋に集う人たちは、あの旅客機に乗りあわせていた乗客たち。
杏仁信女は、おそらく可奈子の戒名だろう。

[終わり]
プロフィール

桃

Author:桃
文学と映画の好きな主婦。
神戸に住んでいます。

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